クルミ・・・ある童話作家のタマゴの話16

近況その➆

  1. 立ちあがるのがかなりキツイ。立ったら水平には歩ける。
  2. 夜眠れないのがかなりキツイ。
  3. 癌がかなり進行しているようだ。
  4. あまり痛いところもないが、全身がかなりキツイ。
  5. このブログもあと何回続けられるだろうか。

 

             くるみ

                       タカスギケンジ

 台所の食器棚の片隅に、小さなオニクルミの実が二つころがっている。手のひらに、この二つのクルミをにぎりしめて、いつもガリガリと鳴らしていた高校時代を思い出す。クルミの実には、あの時代の思い出がつまっている。

 

 クルミの実を手にしたのは、約四十年前のことだ。もう、駅の名前も忘れてしまったが、三江線の小さな無人駅のホームの横に、クルミの木が生えていたのだ。山を少し登った所に駅のプラットホームがあり、その周りを様々な高い木の枝がおおっていた。その木のなかにクルミの木があったのだ。当時の私は十六歳。高校二年生。秋のことだったと思う。

 私は広島県の北部にある三次市で生まれ育った。三次には多くの川がある。西城川、馬洗川、神之瀬川、可愛川の四つの川が合流し、江の川となって島根県江津市まで流れていく。三江線は三次から江津まで、江の川沿いを走っている。

 母親の実家が三江線沿いにあったので、幼い時は、よく列車に乗って母親についていった。列車に乗ると、よくこんな狭い所に橋を作り、トンネルを掘り、線路を敷いたものだなと感心する。それぐらい険しい山々が車窓から迫ってくるのだ。日本のローカル線の中でもかなりの難工事をクリアして、全線開通させた線路だ。

 母親の実家は今では住む人も無く、近く取り壊される予定だ。家の近くの畑は耕作する人も無く荒れ地になっている。月日は人々の営みを自然に返すのに時間を惜しまない。

 三次盆地は秋になると寒さで霧が発生し、街全体を霧がおおう。寒い日の朝早く三次で一番高い山、高谷山の頂上からふもとを眺めると、まるで海の中に島が浮かんでいるように見える。「霧の海」として地元では有名だ。今は高谷山の頂上まで、きれいな道路が通っているが、あの頃は舗装されていない狭い山道を登った。

 小学生のときは当然徒歩で登った。しかし高校生になると、みんなバイクの免許を持っている。今と違って免許を取ることに何の問題も無く、多くの高校では、バイク通学が認められていた。母校も確か家から駅まで、もしくは家から高校まで、六キロ以上離れていればバイクで通学できた。多くの級友が原付で通っていたが、なかには小型二輪、一二五CCのバイクで通っている先輩もいた。

 母校では年一回、交通安全教室がひらかれていた。白バイの警察官が高校に来て、無造作に置かれた古タイヤの上を走り、その後をバイク通学生が、それぞれのバイクに乗ってついて走ったのを覚えている。白バイ乗りは上手かった。あの重い白バイを上手くコントロールし、古タイヤを越えていくテクニックは見事だった。

 私もバイクの免許は十六歳の冬休みに取得した。と言っても原付だから簡単だった。当時は実技講習も無く、五○問の○×学科試験だけだ。免許を取得したクラスの友人から、一冊の問題集を借りて勉強した。その日の試験はちょうど勉強した内容と同じような問題が出た。試験場には高校の友人が何人も受けに来ていたが全員合格した。

 バイクを買ったのは高二になってからだ。中三の冬休みと高一の夏休みにアルバイトをしていたので、七万円持っていた。その頃近所の自転車屋に、ホンダCB50JXが置いてあった。四サイクル単気筒四十九CC。色はオレンジ。もちろん中古車だ。値段は七万円。買えば全財産が無くなる。どうしようか悩んだ。一日中考えた。お金は持っていれば様々なモノに交換できる。しかしお金に乗って走ることは出来ない。モノに交換してこそお金の価値だと。だから買った。このバイクが、その後四十年に渡って、バイクを乗り続けた私にとっての、記念すべき最初の一台になった。

 

 高二の秋、このCBで高谷山に登った。午前六時ごろ家をでた。白い霧でまわりがあまり見えないなかを走った。小さいときには何時間もかけて歩いて登った山は、バイクではゆっくり走っても、家から二○分もかからなかった。

 ただし何度も転倒しそうになった。舗装されていないから車の轍が出来ている。その左側を走るのだが水たまりになっていたり、石があったり、道路のコンディションは最悪なのだ。CBはオンロード車。アスファルトの上を走るためのタイヤがついているバイクだ。

「こんな道ならオフロード車を買えば良かったかな。まあ、こんな道だからゆっくり行くさ。でも車が来たらすれ違えないなあ」と思いながら進んだ。

 頂上近くの空き地にバイクをとめた。そこから歩いて五分のところに「霧の海展望台」がある。私が展望台に向かって歩いていると、展望台の中に、一台の見慣れたバイクがとめてあるのが見えた。ホンダダックス50。四サイクル単気筒四十九CC。色は黒。その横に一人の男が「霧の海」を見ているのを見つけた。知った顔だった。私は男に声をかけた。

「おはよう。杉田くんか」

 私は杉田に声をかけた。杉田は驚いた様子でも無く、振り返った。

「おお。おはよう」

 杉田と私は小学校からの同級生だ。中学校・高校も同じ所に進学した。小学生のとき魚釣りを教えてくれたのが杉田だ。川や、ため池に一緒に魚釣りに行く仲だった。また中学校では同じサッカー部に入った。一緒に汗を流した仲だ。

 だが中学校・高校ともに、同じクラスにはならなかった。また、高校に進学してから杉田は継続してサッカー部に入部したが、私はサッカーをやめてしまい囲碁・将棋部に入部した。そのためか同じ高校なのに、杉田と小・中学校のときほど、話をする機会はなくなっていた。

「何か久しぶり。同じ高校なのに会わないなあ」

「そうだなあ。まあクラスもクラブも違えばそんなもんだろう」

「もうサッカーは、やらんのか。きみがキーパーだったら、この間の試合勝てたかもしれんのにと、○○先輩が残念がっていたで。三年の先輩達はみんな引退したから、この時期に入部するヤツもいるぞ」

「え。もう一年半もやっていないからな。今更試合に出てもボールがとれないだろう。それにうちの高校、クラブの掛け持ちなんかできないだろ。もうサッカーには縁が無いんだ。みんなで頑張ってくれ。それよりすごいな。街が全然見えない」私は眼下の「霧の海」をさして言った。

「そうだな。何か幻想的だよな。霧の中に山が浮かんで見えるのが、海の中に島が見えるのと似ているからそう言うんだろう。たしか昔、小学校のころ登ったよな。あの時は結局見えなかったけど。それから、来る機会がなくて・・・でもすごいな」杉田と私は小学校六年生の頃、「霧の海」を見ようと計画を立てて、この高谷山に徒歩で登ったのだ。だが、その日は霧が出なくて、残念ながら「霧の海」は見えなかったのだ。

「リベンジが出来て良かったな。きみも今朝はこれを見に来たのか?」

「ああ。今朝はかなり冷えるから、霧がふもとでも発生していたからな。ただそれもあるけど、他にも理由がある。クルミの木がないか探しに来た」

クルミか?」

「ああ。握力を鍛えるのにクルミを握るのが良いらしい。この間、読んだマンガに書いてあった」

 私の高校時代は武道・格闘技マンガばかりだった記憶がある。私が特に好きだったのが『空手バカ一代』だ。このマンガは実在する極真空手の館長、大山先生を主人公としていたので、多くの内容が事実だと思い込んでいた。素手でビールビンを切る。十円玉を曲げる。自然石を割る。牛と素手で戦う。空手を学べば超人になれると思い込んでいた。しかし、近くに極真空手の道場は無かった。クルミの話は、この空手バカ一代か、もしくは他の武道マンガに書いてあったのではないかと今は思うのだが。

「この山ではクルミは見ないな。それより、三江線粟屋駅から、何駅か乗った所にあったぞ。たしか」

「本当か」

「ああ。行ってみるか?これから」

「おう案内してくれ」

 私は杉田のダックスの後ろを、CBでついて行くことになった。久しぶりに人のバイクの後ろを走るのか、少し怖いと思った。何故か。私は高二でバイクを買ってすぐに、友人三人でツーリングにでかけた。私は二番目を走っていた。しかし、ハンドル操作を誤り崖に激突してしまい、全身打撲の大けがをした。たいした運転テクニックも無いのに、無理してついていったのがいけなかったのだ。免許は学科試験だけなので、自分で運転技術を磨かなければいけないのだが、それが出来ていなかった。このバイク事故以来、私は友人と走らなくなった。人と同じペースでバイクを走らせるのが怖くなっていたのだ。だから、少し怖かったのだ。

 

 そう思っていた私と杉田のバイクによる、三江線の駅巡りが始まった。杉田の家は三次駅から二つ北西に進んだ、粟屋駅の近くにある大きな農家だ。広大な山と田畑を有していた。ちなみに粟屋駅無人駅だ。駅員はいないし、改札もない。長いホームがあるだけだ。粟屋駅に限らず、この頃すでに三江線では多くの駅が無人駅になっていた。

 我々二人は高谷山から下りて、道路を北西に進んだ。最初の粟屋駅を通り過ぎた。長谷駅も通り過ぎた。杉田は初めて船佐駅でエンジンをとめた。私もダックスの横にバイクをとめて、周りを見回した。クルミの木を探した。しかし、駅の周りに大きなクルミの木は見当たらなかった。

「ここではないな」

「何駅か覚えていないのか?」

「ああ。こんな駅だったが、駅名は覚えていない」

「じゃあ。次に行こうか」

「そうだな」

 舗装はされていたが狭い道路を二台のバイクが三江線沿いを走った。そしていくつか駅を探すなかで、目当ての駅にたどり着いた。本当に駅の名前はもう忘れてしまったのだが。バイクをとめて、その駅のホームに登った記憶だけはある。

「これだ。あった。この駅だったんだ」

駅のホームの端に、枝を伸ばした大きなクルミの木を見て杉田が叫んだ。

「これか、これがクルミの木?」

よく見ると緑色の実がブドウのように房になってついていた。多分この時、私は初めてクルミの実が木についているのを見たのだ。

「これの中にあの硬い実が入っているのか。どうやって取り出すんだろ」

「水につけておけば外側は腐るさ。でも早く取り出したければ、こうやって削れば良いのさ」

 杉田は駅のホームのコンクリートに、落ちていた少し茶色かかった緑色のクルミの実をこすりつけた。すると中から、あの硬い茶色の実が出てきた。その時だ。もうすぐ列車が来る時間だったのだろう。一人の老婆が駅のホームに上がってきた。

クルミを取りにきたんね?どこからきたんね?」と聞いてきた。

「はい。三次から来ました。クルミ持って行っても良いですか」私は少しびっくりして正直に答えた。よく考えればたとえ山の木だって持ち主がいるのだ。この木だって誰かのものだ。勝手に持って行けば泥棒だ。しかしそんな心配はいらなかった。

「いいよ。持って帰りんさい。今時、誰もオニクルミの実なんか食べんわな。好きなだけ持って行きんさい」そう老婆は答え、ホームの中央へ向かった。

「このクルミの木は、あの人のものかな」

「あの人のものでなくても、田舎には入会権があるんじゃ。昔から山の所有者で無くても、その山の木を薪に使っていたら、持って行って良い権利だ。山菜や木の実なんかもそうだ。でも、最近は街から山菜を取りに来る人が山を荒らすから、縄を張って入山禁止にしている所も多くなったんだ」そう杉田が教えてくれた。 「マッタケなんかもか?」

「高級品はだめだろ」杉田があきれて言った。

「こいつを割れば中身が食べられるんだ。でも目的は、この硬い実なんだろ」

「ああそうだ。ありがとう。とりあえず落ちているヤツを持って帰るわ」

「帰りはスピードを出すから、無理してついてこんので。自分のペースで走るんで」と杉田が言った。

「わかった」杉田の言うとおり、私はゆっくりついて走った。しばらく走ると、杉田のバイクは見えなくなった。

 何故、杉田は私のクルミ探しに付き合ってくれたのか。案内までしてくれたのだろうか。今思えばバイク事故以来、私は人付き合いが悪くなっていたのだと思う。いろんな友人の誘いにあまりのらなくなっていた。そんな私を杉田は心配してくれていたのではないか。

 あの日、私が高谷山に行く予定であることを誰かから聞いていたのではないか。だから待っていた。さらにクルミの実を探していたことも、本当は知っていたのではないだろうか。何故なら先に帰ったはずの杉田が自分の家に曲がる交差点で待っていたからだ。

「あれ。待っていてくれたのか。ありがとう」私がそう言うと

「いや。遅いんで、事故でも起こしていないか心配していた。それとバイク、もっと練習した方がいいぞ。カーブで少しふらふらしていた。だけど人生は人それぞれだから、自分のペースで走ることも大切なんだ」

「ああ。ありがとう。今日は久しぶりに、人について走ったよ」私がそう言うと

「じゃあな。また一緒に走ろう」と言って杉田は家に帰っていった。

 杉田はクルミを探しにいくときは、バイク乗りの、お手本を見せるように、ゆっくり走ってくれた。帰りには、こんな走りも出来るんだ、というように速く走るテクニックを、見せてくれた。約四十年前のことだ。本当に杉田は優しい友人だった。

 私は家に帰り早速、茶色になりかけた緑色の外側の皮を削り、中の硬い実を取り出した。きれいに洗い、ミシン油をつけて磨いた。テカテカしてきた。その日からずっと手に持ってガリガリ鳴らした。

 制服のポケットの中には、いつもクルミの実が入っていた。朝夕の通学列車の中でも、駅から高校までの徒歩での道のりも、手の中の二つのクルミガリガリ鳴らした。家では数学の問題を解いているときも、化学反応式を覚えているときも、ガリガリと鳴らした。

 

 私の母校は三次から二十キロ離れた街にあった。一学年、普通科六クラス。家政科一クラスの規模だ。家から二キロ、すぐ近くの高校には行けなかった。この時代、高校入試は総合選抜制。合格者を複数の高校にクジで振り分けるのだ。合格はしたが、クジには外れたのだ。しかしその代償は大きかった。列車通学なので定期代がかかる。朝早く起きなくてはいけない。帰りの列車を逃したら家に帰る手段が無い。そして進学校では無い。先輩達の進路は進学と就職が半々。進学も専門学校や私立大学が多く、国立大学進学者は数人だった。

 私はただボーと高校生活を送っていた。あまり勉強もしなかった。みんながバイクの免許を取るから自分も取った。みんなと同じように過ごしていれば、人生何とかなると思っていた。しかし、よく考えたら専門学校や私立大学なんかに進学するお金は無い。家の経済力では進学するには国立大学しか無かった。クルミを鳴らしていたとき、杉田の言葉を思い出した。

「人生は人それぞれか。そうだ、みんなと同じことをやっていてはだめだ。国立大学に進学したら空手を習う機会もあるかもしれない。今のまま何も真剣にやらなかったら未来は無い。」杉田の言ったのはバイクだけのことでは無い。人生は人それぞれ、頑張ればどうにかなるのだ。

 クルミをにぎり続けた私は、脳が活性化したのか、突然そう思ったのだ。ある本によると我々人類の右脳は思考力・判断力を司り、左脳は記憶力を司るという。そして首のところで神経が交差しているので、左手を刺激すると右脳が活発になり、思考力・判断力が伸びる。右手を刺激すると左脳が活発になり、記憶力が伸びる。

 私は高二の冬から受験学習を始めた。右手に鉛筆を持っているので、クルミは左手に持ってガリガリ鳴らしながら学習した。思考力が伸びた。数学や化学の問題がよく解けた。成績も伸びた。握力をつけるという最初の目的は変わった。学習のためにクルミをにぎり続けるようになった。

 

 三年生になっても、クルミをにぎり続けた。それどころか、頭が活性化するので授業中もガリガリ鳴らすようになった。最初はどの先生も注意しなかった。ますます図に乗って鳴らすようになった。そして

「やかましい」それは日本史の時間だった。ものすごく怒鳴られた。

「すみません」びっくりして、とっさに口から言葉が出てきた。

「前から言おうと思よったんじゃ」という先生の言葉で、みんなに迷惑かけていたことに気づいた。

 クルミは没収されなかった。人生人それぞれと言っても、みんなに迷惑をかけたらいけないよなと反省し、それ以後授業中にガリガリ鳴らすことはやめた。そして朝夕の通学列車の中でも鳴らすのはやめた。ただ家の中や駅から高校までの徒歩での道のりでは、クルミガリガリ鳴らした。

 私は総合選抜制の三回生であり、共通一次試験の三回生でもある。その共通一次試験にも、お守りとしてクルミを持って行った。一年間にぎり続けたクルミは、私の目標への出発点だった。大学に進学し空手を習う。将来どんな職業に就くとか、何を学びたいとかそんなこと全く考えないで、共通一次試験を受けた。共通一次試験の得点で、合格しそうな大学を受験した。この年の卒業生で国立大学に合格したのは私を含め六人だった。

 クルミの中には、三江線の駅をバイクで巡った思い出と、友人の杉田の言葉、にぎり続けて学習した、一年間がつまっている。そんな小さなオニクルミの実が、今でも台所の食器棚の片隅に、二つころがっている。

 三次から江津をつなぐ三江線は赤字路線という理由で今年、二○一八年、三月に廃止された。あの無人駅のホームの横に生えていたクルミの木。今も生えているのだろうか。枝を大きく広げてホームをおおって。

                                   おわり